Eliezer Remarks

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zoom RSS 昔の人々

<<   作成日時 : 2018/07/31 22:09   >>

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 ずいぶん前のことだ。某テレビ局で「書聖 王羲之の革命」という番組を放送していた。興味があって少し見たのだが、王羲之の書がなぜそれほど有難いのか、よくわからなかった。AD4世紀の人。それまでは甲骨文字とか金文など、骨や金属に彫刻したり、鋳造するのが文字を記すということだったのが、筆と紙の発明・普及にともない、以前より自由に文字が書けるようになったのだという。彼は書を芸術の域にまで高めたのだった。しかし、私には、ただ達筆かなと、わずかにわかるだけで、あまり草書の複雑なものになると、本当に達筆かどうかの判断は、アヤシくなってくる。王羲之の文字も「ふうん、そんなものかなぁ」と眺めていた。

 字が細くなったり、途中で太くなったり、流麗というか、うねったり、くるりと巻いたりした線が続いている。そんなところにもバランスがあるのかとは思う。おそらく、わかる人には、その姿に、悲哀や喜びなどを見て取るのだろう。ある意味では羨ましい限りである。そこまで表現できるのなら、なおすばらしいことだ。

 しかし、英会話の先生と書道のことを話していて、私も彼も、さんざん悪口を言ったくらいで、本当は書のことなんか、ほとんどわからないのだ。これは表意文字という性格上、このような芸術が出てくるのであろう。表音文字だと、こういうものは成り立ちにくい。確かにカリグラフィーというものはあるが、あれはどちらかというと文字を飾って書くようなものだ。まぁ、アラビア語の、絵画と一体化するような曲線というのもあるとは思うが。

 書は基本的にどんなに遅く筆を運ぼうが、また早く書こうが、基本的に一気に書くものである。そこにはおのずと勢いというものもあろう。…あれっ、何だがわかったような書きぶりになってきた。いや、私はわからないのだ。ただ、小学校で習字の授業はあったから、少しわかった気になっているだけだ。すらすらと草書を書けたら、格好良いだろうなとは思う。だって、それが中国、日本の伝統であり、教養なんだもの。こちらの住所と賀詞を達筆に書いて送られてきた年賀状は、絵になっていた。表書きに住所、裏に賀詞と名前だけで、そこはかとなく新春のめでたさが、立ち上ってくるようだった。

 最近、太平記などを少しばかり読んでみて(こんな大部な古文はとても歯が立たない)、古典に親しもうと思ったのである。その前は平家物語。もちろん、途中で放り投げたが。それでも、平家物語あたりから、現代につながる日本語が成立したのは、読み進んでみてわかった。源氏物語となると、お手上げだ。これは今とは少しちがう日本語だ。だが、平家物語にせよ、太平記にせよ、よくもまぁ、あんなに簡単に、コロコロと武士が死んでいくものだと唖然とする。家名を汚すとか、恥をかかされると、もう生きてはいけない。刀を口に当てて馬の上から飛び降りたり、もう、もの凄い。ほんの少し前まで武士はそのようにして死んでいくのが、当たり前の死生観だったのだろう。

 日本は戦争に負けて、すっかりアメリカに骨抜きにされてしまった。そのような最後の世代が皆根絶やしにされたというべきか。さらにデモクラタイゼーション、上からの強制民主化である。そして、サムライの最後の残照が三島由紀夫だった。彼は中等科の頃は、剣道のあの甲高い叫びが大嫌いだったという。しかし、“文”のみやびを発って、ギリシャの太陽を浴びた世界旅行を経て、やがて武の世界へ回帰したのだった。最初は日光浴、そしてお祭りで御輿を担いで「すげえだろ?」と周囲に自慢したという。「豊饒の海 第三・暁の寺」の初めの方に、タイの雑踏の描写に「めづらかな果物は市場で売られた」というくだりがある。私はめづらかなという言葉に、「へぇ〜、こんな言葉や使い方があるんだ…」と目を見張ったものである。だが、これは源氏物語の桐壺の冒頭近くに“…御覧ずるに、珍らかなる、児の御かたちなり。”と出てくるのである。私の出た高校では、古文と漢文を古典として一括りした授業しかなかったから、わからなかったのである。

 三島由紀夫は文に精進して作家の地位を確立し、その後に武に全重心をかけ、切腹して生を終えた、「後に続くある者を信ず」と言い残して。彼の裡の日本はそこまで駆り立てたのかもしれない。

 なぜ私は平家物語や太平記を読もうとしたのだろうか。七年ほど前、角川の文庫本の平家物語上下巻を買い求めて、手元にあったのは確かだった。その頃よく立ち寄るのを楽しみにしていた古書店にあったのである。そして、読まずに“つん読”のまま書棚を飾ってあったにすぎない。いつか読むためにと思って。朗読コンクールのテキストだったことも頭の片隅にあった。

 佐々木高綱と梶原景季が競いあって宇治川を渡る場面だった。馬の名前は覚えている。池月と磨墨と言った。佐々木が、馬の腹帯が緩んでいるから注意せよと、梶原に声をかけ、その隙に向こう岸に一番乗りするという話であった。コンクールでは、慎重のあまり、ゆっくり読みすぎて最初で落選したが。

 平清盛の異例の出世と一門の繁栄は、赫々たるものだったのだろう。それ故に、その凋落は人々の耳目もひいたのだ。この平安末期の大カタストローフは、人々の涙を誘った。平家琵琶にのせて盲目の法師が各地を語り歩いた。ほんの少し、YouTubeで琵琶を聴いても、その鋭い、せつない調べは内なる感情をかき立てる。

 インターネットも、テレビも、ラジオも、自動車も、鉄道も、プラスティックも何にもなかった時代。ふつうの人々はどんな生活をしていたのだろうか。ろうそくや灯し油なども、そうそう点けていられるわけでもなかったろう。囲炉裏はあったろうが、それだけだったかもしれない。日没とともに寝るしかない、そんな生活だったろう。武家といっても、贅沢などはそうできなかっただろう。みんな貧しく、飢餓線上にあっぷあっぷして、生きていくのがやっとだったろう。天変地異があると、人々はころころ死んでいった。武士も同じ、殺すか殺されるかで、ころころ死んでいったのだ。

 だから、死んでいった者たちに対する共感もひとしおだったのかもしれない。平家琵琶の音を聴くと、彼らの無念さが伝わってくるように思える。そんな遠いむかしの栄華と、大崩壊…。そのような悲劇に耳を傾けることは、あるいは貧しき人々にとって、唯一の慰めだったのかもしれない。

 三島由紀夫の言わんとする(と、私が理解しているかぎりの)ことも、じんわりと分かるような気もする。だが、まかり間違っても私は、腹かっさばいて…などという死に方はできない。一命を鴻毛の軽きに比すなどというのも、真っ平である。冗談じゃない。私はころころと死にたくはない。どちらかというと「命は一つ、人生は一回だけだから、命を捨てないようにね。慌てると、ついふらふらと、お国のためなのと言われるとね。青くなって尻込みなさい、逃げなさい、隠れなさい」と歌う、加川良に共感するクチだから、そのような強いられた死は御免蒙りたい。

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